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*㈲アツザワ・プロテーゼ九州 ブログ*

黒以外の目は作れる?

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こんにちは!

いつも(有)アツザワ・プロテーゼ九州のブログを
ご覧いただきありがとうございます。
先週、博多に出現した大きな穴のニュースは驚きましたね!

さて、唐突ですが!
ここ、福岡でもまれに海外出身の患者さんが義眼を
お求めにいらっしゃることがあります。
福岡という土地柄のためか、アジアのご出身なことがほとんどですが、
ごくごくまれに、西洋のご出身の方がいらっしゃることもあります。
虹彩がブラウンやヘーゼル以外の眼となると、
いつもとは違うテクニックが必要となります!

そこで・・練習のために
ブルーの虹彩(黒目)を作ってみました!
『青い目』と言っても、実際はブルーグレーのような色の場合が多いので、
そのようなイメージの写真に合わせてみました。
いかがでしょう??

※現在のところ、オシャレを目的としたブルーの義眼の
 販売予定はございません。どうしてもとご希望の場合には直接ご相談ください。

2016年11月04日 01:11

☆義眼の歴史☆~日本の義眼Ⅱ~

西洋の義眼との出会い
西洋のガラス義眼が初めて日本に持ち込まれたのは1868年、
徳川幕府からフランスに派遣された池田筑後守が戸塚文海に依頼されて持ち帰った
フランス製の義眼だと言われています。
 
その後、日本にもフランスのボアッソノー式義眼や
ドイツのミューラー式義眼が輸入されるようになりましたが
輸入された既製品から日本人に合う義眼を見つけるのは
非常に困難だったため、国産の義眼の開発が急がれました。
 
姫路の医師、高橋江春先生は、輸入されたボアッソノーの義眼などを参考に、
明治初期より長年の試行錯誤の末、1884年(明治17年)日本で初めて
鉛ガラス製の義眼の作製に成功しました。
 
しかし、世界的にフランスに代表される鉛ガラスの義眼よりも、
ドイツのミューラー式義眼が主流になったことに加え、
そのドイツ製ミューラー式義眼がマルク安のため大量に日本に輸入され、
販売価格が約10分の1程度まで下がったことで、
国産義眼を求める人は減っていきました。
 
高橋先生の跡を継いだ技術者もたようたようですが、
残念ながら大正から昭和になるころには
この高橋式義眼とも呼ばれる義眼の作製は中止され、
日本全国に普及することはありませんでした。
 
国産ガラス義眼の実用化
その後も日本は素材をドイツからの輸入に頼るのではなく、
素材を含めた義眼の完全国産化を目指し、
鉛ガラスに代わる新しいガラス素材の開発に取り組みました。
 
当時の東京帝国大学の眼科の石原忍教授の命によって
国産義眼の研究開発に長年携わっていた、
中泉行正博士からの依頼を受けて研究をすすめていた
岩城硝子製造所が1929年(昭和4年)、
義眼の素材に適したガラスの実用化に目途をつけました。
 
その後、中泉博士から依頼を受け、化学用実験器具職人の
厚沢銀次郎氏が、国産の新しいガラス素材を使って義眼の開発を始めました。
 
厚沢氏はミューラー式義眼の作製方法を研究し、
1930年(昭和5年・・満州事変の前年)初めて国産義眼の実用化に成功しました。
また、義眼作成の工程を国内で行うことができるようになったことにより、
一人ひとりに合わせたオーダーメイドの義眼の作製も可能になりました。
 
ガラスからアクリルへ
第二次世界大戦中、アメリカではアクリル樹脂を使った義眼の作製に成功していました。
日本へも終戦後、欧米から文献が入ってくるようになり、
アクリル樹脂製義眼の情報が伝えられました。
 
中泉行正博士が1952年(昭和27年)に発表した文献の中で
「国産プラスチック義眼」について紹介していることから
終戦後には日本でも速やかに義眼の素材が、
ガラスからアクリル樹脂へと移行されていたことが分かります。
 
この文献の中で紹介されている日本の
樹脂製義眼の作製方法は
アメリカの「アーミー・メソッド」など、
西洋の義眼作成方法とは違う、日本独自の部分もすでにあります。

ガラス製義眼の時も、アクリル製義眼の時も、
西洋のオキュラリストと違い、直接ドイツやアメリカのラボへ弟子入りするという形で
技術を教えてもらうことは難しかったにもかかわらず、
かなりの短期間で独自に義眼を作製することを可能にした
日本のオキュラリストや素材開発に携わった方々の努力と情熱には
本当に頭の下がる思いです。

義眼の歴史をたどると、国内外問わず、大きな変化のきっかけは
残念ながら戦争であることが多いように思います。
今後は地道でも、少しずつでも、世界中の義眼師同士、協力して
争うことなくより良い義眼を作れるようになりたいと思いました。

2016年11月02日 17:31

☆義眼の歴史☆~日本の義眼Ⅰ~

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日本の義眼のルーツ
義眼は、昔は偽眼(目)や
入れ目などと呼ばれていました。

日本での作られていた
初期の義眼は木、木の実、獣骨などで作った
非常に稚拙なつくりのものだったようです。
 
日本の義眼のルーツではないかと言われているものの一つが「玉眼」です。
玉眼とは中空にされた仏像頭部の目を
瞼の縁のラインにそってくり抜き、
裏側から、研磨した水晶と、染色された紙や綿などを重ねて木杭で固定することで、
表から見た時に、仏像の眼を
涙に濡れたようなリアルな眼にみせる技法です。
 
現存するもので最も古い玉眼の入った仏像は
1151年に作られた阿弥陀三尊像(奈良県・長岳寺所蔵)ですが、
鎌倉時代になると玉眼の入れられた仏像が多くみられるようになります。
江戸時代に、「玉匠師」に義眼の作成を依頼したという記録も残っていることから、
こういった仏像や仏具の作成に使われた
玉(ぎょく)の加工技術が後の日本の義眼に影響したと考えられています。
 
初めて人間の眼に義眼が入れられ始めたのは18世紀中期ではないかと
という仮説もありますが、はっきりしたことは解っていません。
 
江戸時代の義眼

江戸時代に入ると当時の義眼について知ることのできる
文献がいくつか現代に残されています。

現在知られているものでもっとも古いものでは
中御門天皇の時代(在位期間 1709年~1735年)に
伊賀国の樋口氏によって作られていたという記録があります。
 
江戸時代の義眼はかなり単純な作りであったようです。
蝋石を半球にして、裏から虹彩にあたる部分に穴をあけ、
穴の中に色付けした蝋石をはめ込んだものと、
ガラスや水晶に胡粉(ごふん)で
虹彩を書いたものの大きく分けて2タイプがありました。
後者は、すぐに色が剥げてきてしまうという問題があったため、
ガラスの裏から胡粉で虹彩を描き、裏面全体を金粉で被って色を剥げにくいように
工夫したものもありました。
 
他にも獣角や、べっ甲などさまざまな素材が試されており、
陶器で義眼を作成したという記録も残っています。
陶器製の義眼はガラス製のものと比べ、
削ったり、研磨して、修正を加えることができるという
利点があると考えられていたようです。

画像
眼科・外科医療機器 歴史博物館 所蔵の木の実で作られた義眼

2016年10月26日 13:43

☆義眼の歴史☆~樹脂製義眼~

 
割れない義眼への挑戦
1890年、ビリヤードボールメーカーが、象牙に代わる素材を募集しました。
そこにジョン・W・ハイアットが送ったのが後に「セルロイド」と
呼ばれるようになる新素材でした。
セルロイドがビリヤードボールに使われることはありませんでしたが、
おもちゃや日用品などに広く使われることになります。

1900年代初期には、ガラス製義眼の壊れやすさを改善するため、
フランスでセルロイド製の義眼が作られました。
しかし、残念なことに、セルロイド製義眼はガラスと比較してもさほど強度が上がらず、
数カ月程度しか使うことが出来ませんでした。
さらに、装用感・リアル感もガラス製に劣っていたため、
その後義眼の素材として広く使われることはありませんでした。
 
きっかけはアクシデント
フランツ・ヤードンというドイツ系移民の歯科技工士が
カンザスシティーにラボを開いていました。
1939年(第二次世界大戦がはじまった年)、
彼のラボにシカゴにある義眼作成ラボM&Gから
オキュラリスト2名を招いて、
カンザスシティーの患者さんのためにガラス製義眼を作ってもらいました。

それから間もなく、幼い患者さんが
「作ってもらったばかりの義眼を割ってしまった」
とフランツのラボに戻ってきました。
しかし、オキュラリストはすでにシカゴに帰ってしまっており、
シカゴからそう度々来てもらうこともできません。

フランツは同僚で、アクリル製入れ歯を作成していたデールと相談し、
この患者さんのために割れたガラス製義眼から
虹彩部分を切り取り、それをアクリルに埋め込んだ仮の義眼を作ることにしました。
これが初めて作られたアクリル製義眼だと言われています。

しかし、このタイプの義眼は
ガラス製の虹彩とアクリル製の部分が
剥離しやすいという問題があったため、
間も無く製造が中止されました。
その後、光彩部分にガラス以外の素材を埋め込む方法も
試みられましたが非常に退色しやすく
実用化にはつながりませんでした。
 

割れない義眼誕生
第二次世界大戦前のアメリカでは

ニューヨークやシカゴなどの都市部を中心に
ドイツから輸入したガラス素材を使った

国産義眼も作られるようになっていました。
 
しかし、第二次世界大戦がはじまると、
ドイツから素材の輸入ができなくなったことから
義眼の作製が困難になってしまいました。
戦争の影響によって高まる義眼のニーズに応えるため、

ガラスに代わる義眼の新素材の開発が急がました。
 

1942年、アメリカ軍歯科班所属のスタンレー・エルプ中尉が
世界初の退色しにくいアクリル製義眼の作成に成功しました。
その後、このアメリカ軍で考え出された義眼作成法は
「アーミー・メソッド」と呼ばれるようになりました。

1942年以降の数年の間、アメリカ陸・海軍をはじめ、
フランツ・ヤードン、シカゴのM&Gのオキュラリストなどを中心に
この「アーミーメソッド」の研究と改良が続けられました。
1945年に第二次世界大戦が終わり、
間も無くアクリル製の義眼が世界に広く普及しました。

 

2016年09月28日 13:12

☆義眼の歴史☆~ガラス製義眼~

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世界初のガラス製義眼
1579年、ベニスでガラス製の義眼が登場しました
(日本で言うと本能寺の変の3年前ですね)。
ガラス製義眼の作成方法や素材の調合法はその後100年以上の間
ベネチアの職人の間で秘密にされていました。
当時のガラス製義眼は非常に壊れやすく、1カ月程度しかもたなかったそうです。
また、縁が尖っていたため装用感が悪かったと言われています。
 
1749年、外科医、フィリップ・アダム・ハウグが著書の中で
義眼は装用者の瞼の内側の空間に合わせて作られるべきだという
現在のカスタムメイドに通じる考え方を紹介しています。
また、その3年後、ドイツ人の外科医ローラン・ハイスターによって
金属製の義眼よりも、表面が滑らかであることと、
涙による腐食が起こりにくいという点で、ガラスのほうが素材として好ましいとも述べられています。
 
ベニスからパリへそして『オキュラリスト』の誕生
19世紀初期には優秀な職人がパリに集まり、
ガラス製義眼作りの中心はパリだと言われるようになっていました。

特にボアッソノー家の作成した義眼は
アメリカやヨーロッパ各地に輸出さるとともに、
(1822年頃・江戸末期)
ボアッソノーに育てられた多くの弟子によって、ボアッソノー式義眼の作成技術が
ヨーロッパ各地で普及して行きました。

アメリカへもスイス生まれの弟子であるペーター・ゴーグルマンによって
ボアッソノーの技術が伝えられました(1851年ニューヨークにて開業)。

また、ボアッソノーは「義眼を作る職人」を指す
「オキュラリスト」という言葉を作ったことでも義眼の歴史上とても重要です。
日本では義眼師という独自の言葉が使われることも多いですが、
今でも海外ではオキュラリストという呼び方が一般によく使われています。
 
ガラス素材の革命@ドイツ
従来の鉛ガラスよりも強くて軽い、
義眼に適した新しいガラス素材が1835年、
ドイツのラオシャというガラス工芸で有名な小さな村の
ガラス職人、ルートヴィッヒ・ミュラー・ウリよって開発されます。
この新素材の開発成功により、義眼作りの中心はラオシャだと言われるようになります。
この村ではクリスマスオーナメントやその技術を応用した
リアルな人形用のガラスの目などが作られており、
ドイツ式ガラス義眼のルーツはクリスマスオーナメントだとか、
ドールアイだとか言われています。
 
シングル義眼・ダブル義眼の語源はココ!
もともとガラス製義眼は貝殻のような薄いものしか作られておらず、
眼球摘出などの場合には明らかなボリューム不足でした。
1889年頃(明治22年)、従来のガラス製義眼の持つ問題を解決するため、
ルートヴィッヒの甥、フレドリック・アドルフ・ミュラー・ウリが、
厚型ガラス製義眼を開発しました。
この新しいタイプのガラス製義眼は、中空にすることによって、
縁に丸みを持たせたまま義眼に厚みを持たせるよう工夫されていました。
従来の薄い義眼の断面はガラス1枚の壁なのでシングル義眼、
分厚い義眼は中空になっているため
断面がガラスの壁2枚になることから
ダブル義眼と呼ばれるようになりました。

※現在でも眼球ろうなどの場合に装用される
    薄い義眼をシングル義眼(一重義眼)、
    分厚い義眼をダブル義眼(二重義眼)
   と分類することもありますが、
   この 呼び方はガラス義眼の名残で、
   樹脂製義眼はダブル義眼であっても中空にはなっていません。

 

2016年09月27日 12:08

☆義眼の歴史☆~ガラス以前~

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世界最古の義眼

2006年、アフガニスタンとイランの国境近くにある
シャフリ・ソフタ遺跡で、
推定紀元前2800年~2900年ごろに埋葬されたとみられる
25~30歳のミイラ化した女性が、
イランとイタリアの合同発掘チームによって発見されました。
この女性の片方の眼窩から、瀝青(れきせい)でできた半球状の義眼がみつかり、
これが現在、人類最古の義眼として知られています。

この義眼は半球状で両端に穴があけられており、
そこに金の糸を通し眼帯のようにして
固定していたと考えられています。
発見された当初は埋葬時にはめ込まれたのではないかと、
考えられていましたが、
顕微鏡で眼窩の骨を詳しく調査した結果、
義眼を固定するために使用していた糸による骨の摩耗(糸状の跡)が見つかり、
生前、かなり長期間この義眼を装用していた可能性が高いと結論づけられました。また、この調査によって長期の装用により、瞼を失っていた可能性もある事がわかっています。

この義眼は、人間の眼に似せて作られているものではなく、
表面には太陽光を思わせる放射線状の模様(日本の麻の葉模様のような)
が彫られており、金で装飾されていた跡が見られることから、
考古学者は「未来を見る」といった特殊な意味を持った義眼で、この女性は巫女やまじない師のような人だったのではないかとしています。


16世紀中期

16世紀中期のフランスの義眼の記録が
アンブロワーズ・パレによって残されています。
そのころには以下の2種類の義眼が使われていたといいます。

・Echblepharon(エクブレファロン??)
革や陶器製の板を目の形に切り抜き、
虹彩や強膜を描いたものが、金属製バネのバンドの
前方の先端についていて、
バンドのもう一方の先端には義眼を固定するための
グリップがつけられていました。
バンドで頭を挟むようにして装用していたようです。

・Hypoblepharon(ハイポブレファロン??)
金や銀で作られた貝殻のような形状の義眼で、
虹彩や強膜は、エナメルで描かれていました。
瞼の内側に差し込み、眼球勞(がんきゅうろう)の眼の上に乗せて装用されていましたが、装用感が悪く長時間の装用はできませんでした。

画像引用元http://www.flavinscorner.com/parts.htm

 

2016年09月26日 13:08

☆義眼の歴史☆はじめに

こんにちは。
いつも(有)アツザワプロテーゼ九州のブログをご覧頂きありがとうございます。
 
今日から義眼の歴史について5回に分けてご紹介したいと思います!
 
➀義眼の歴史~ガラス以前~
②義眼の歴史~ガラス製義眼~
③義眼の歴史~樹脂製義眼~
④義眼の歴史~日本の義眼Ⅰ~
⑤義眼の歴史~日本の義眼Ⅱ~
 
義眼の歴史については多くの謎が残されています。
西洋とはまた違ったルーツを持つ日本の義眼ですが、
こちらもまた、不明なことも多くあります。
 
世界の義眼の歴史については現在ASOによって共有されている
「義眼の歴史」を参考にご紹介しますが、
私がASOの学会で紹介するまで日本の義眼について知るメンバーは
いなかったように、
もしかするとヨーロッパや中東、アジアなど、他の国々でも
未だ共有されていない義眼の歴史が眠っているのかもしれません。
 
過去の装用者の方々の思い。
試行錯誤を重ねてきた技術者たちの思いに思いを馳せつつ。
素材や形状の移り変わりをご紹介します。
 

2016年09月26日 10:28

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