割れない義眼への挑戦
1890年、ビリヤードボールメーカーが、象牙に代わる素材を募集しました。
そこにジョン・W・ハイアットが送ったのが後に「セルロイド」と
呼ばれるようになる新素材でした。
セルロイドがビリヤードボールに使われることはありませんでしたが、
おもちゃや日用品などに広く使われることになります。
1900年代初期には、ガラス製義眼の壊れやすさを改善するため、
フランスでセルロイド製の義眼が作られました。
しかし、残念なことに、セルロイド製義眼はガラスと比較してもさほど強度が上がらず、
数カ月程度しか使うことが出来ませんでした。
さらに、装用感・リアル感もガラス製に劣っていたため、
その後義眼の素材として広く使われることはありませんでした。
きっかけはアクシデント
フランツ・ヤードンというドイツ系移民の歯科技工士が
カンザスシティーにラボを開いていました。
1939年(第二次世界大戦がはじまった年)、
彼のラボにシカゴにある義眼作成ラボM&Gから
オキュラリスト2名を招いて、
カンザスシティーの患者さんのためにガラス製義眼を作ってもらいました。
それから間もなく、幼い患者さんが
「作ってもらったばかりの義眼を割ってしまった」
とフランツのラボに戻ってきました。
しかし、オキュラリストはすでにシカゴに帰ってしまっており、
シカゴからそう度々来てもらうこともできません。
フランツは同僚で、アクリル製入れ歯を作成していたデールと相談し、
この患者さんのために割れたガラス製義眼から
虹彩部分を切り取り、それをアクリルに埋め込んだ仮の義眼を作ることにしました。
これが初めて作られたアクリル製義眼だと言われています。
しかし、このタイプの義眼は
ガラス製の虹彩とアクリル製の部分が
剥離しやすいという問題があったため、
間も無く製造が中止されました。
その後、光彩部分にガラス以外の素材を埋め込む方法も
試みられましたが非常に退色しやすく
実用化にはつながりませんでした。
割れない義眼誕生
第二次世界大戦前のアメリカでは
ニューヨークやシカゴなどの都市部を中心に
ドイツから輸入したガラス素材を使った
国産義眼も作られるようになっていました。
しかし、第二次世界大戦がはじまると、
ドイツから素材の輸入ができなくなったことから
義眼の作製が困難になってしまいました。
戦争の影響によって高まる義眼のニーズに応えるため、
ガラスに代わる義眼の新素材の開発が急がました。
1942年、アメリカ軍歯科班所属のスタンレー・エルプ中尉が
世界初の退色しにくいアクリル製義眼の作成に成功しました。
その後、このアメリカ軍で考え出された義眼作成法は
「アーミー・メソッド」と呼ばれるようになりました。
1942年以降の数年の間、アメリカ陸・海軍をはじめ、
フランツ・ヤードン、シカゴのM&Gのオキュラリストなどを中心に
この「アーミーメソッド」の研究と改良が続けられました。
1945年に第二次世界大戦が終わり、
間も無くアクリル製の義眼が世界に広く普及しました。
2016年09月28日 13:12