☆義眼の歴史☆~ガラス以前~

世界最古の義眼
2006年、アフガニスタンとイランの国境近くにある
シャフリ・ソフタ遺跡で、
推定紀元前2800年~2900年ごろに埋葬されたとみられる
25~30歳のミイラ化した女性が、
イランとイタリアの合同発掘チームによって発見されました。
この女性の片方の眼窩から、瀝青(れきせい)でできた半球状の義眼がみつかり、
これが現在、人類最古の義眼として知られています。
この義眼は半球状で両端に穴があけられており、
そこに金の糸を通し眼帯のようにして
固定していたと考えられています。
発見された当初は埋葬時にはめ込まれたのではないかと、
考えられていましたが、
顕微鏡で眼窩の骨を詳しく調査した結果、
義眼を固定するために使用していた糸による骨の摩耗(糸状の跡)が見つかり、
生前、かなり長期間この義眼を装用していた可能性が高いと結論づけられました。また、この調査によって長期の装用により、瞼を失っていた可能性もある事がわかっています。
この義眼は、人間の眼に似せて作られているものではなく、
表面には太陽光を思わせる放射線状の模様(日本の麻の葉模様のような)
が彫られており、金で装飾されていた跡が見られることから、
考古学者は「未来を見る」といった特殊な意味を持った義眼で、この女性は巫女やまじない師のような人だったのではないかとしています。
16世紀中期
16世紀中期のフランスの義眼の記録が
アンブロワーズ・パレによって残されています。
そのころには以下の2種類の義眼が使われていたといいます。
・Echblepharon(エクブレファロン??)
革や陶器製の板を目の形に切り抜き、
虹彩や強膜を描いたものが、金属製バネのバンドの
前方の先端についていて、
バンドのもう一方の先端には義眼を固定するための
グリップがつけられていました。
バンドで頭を挟むようにして装用していたようです。
・Hypoblepharon(ハイポブレファロン??)
金や銀で作られた貝殻のような形状の義眼で、
虹彩や強膜は、エナメルで描かれていました。
瞼の内側に差し込み、眼球勞(がんきゅうろう)の眼の上に乗せて装用されていましたが、装用感が悪く長時間の装用はできませんでした。
画像引用元http://www.flavinscorner.com/parts.htm