☆義眼の歴史☆~ガラス製義眼~

世界初のガラス製義眼
1579年、ベニスでガラス製の義眼が登場しました
(日本で言うと本能寺の変の3年前ですね)。
ガラス製義眼の作成方法や素材の調合法はその後100年以上の間
ベネチアの職人の間で秘密にされていました。
当時のガラス製義眼は非常に壊れやすく、1カ月程度しかもたなかったそうです。
また、縁が尖っていたため装用感が悪かったと言われています。
1749年、外科医、フィリップ・アダム・ハウグが著書の中で
義眼は装用者の瞼の内側の空間に合わせて作られるべきだという
現在のカスタムメイドに通じる考え方を紹介しています。
また、その3年後、ドイツ人の外科医ローラン・ハイスターによって
金属製の義眼よりも、表面が滑らかであることと、
涙による腐食が起こりにくいという点で、ガラスのほうが素材として好ましいとも述べられています。
ベニスからパリへそして『オキュラリスト』の誕生
19世紀初期には優秀な職人がパリに集まり、
ガラス製義眼作りの中心はパリだと言われるようになっていました。
特にボアッソノー家の作成した義眼は
アメリカやヨーロッパ各地に輸出さるとともに、
(1822年頃・江戸末期)
ボアッソノーに育てられた多くの弟子によって、ボアッソノー式義眼の作成技術が
ヨーロッパ各地で普及して行きました。
アメリカへもスイス生まれの弟子であるペーター・ゴーグルマンによって
ボアッソノーの技術が伝えられました(1851年ニューヨークにて開業)。
また、ボアッソノーは「義眼を作る職人」を指す
「オキュラリスト」という言葉を作ったことでも義眼の歴史上とても重要です。
日本では義眼師という独自の言葉が使われることも多いですが、
今でも海外ではオキュラリストという呼び方が一般によく使われています。
ガラス素材の革命@ドイツ
従来の鉛ガラスよりも強くて軽い、
義眼に適した新しいガラス素材が1835年、
ドイツのラオシャというガラス工芸で有名な小さな村の
ガラス職人、ルートヴィッヒ・ミュラー・ウリよって開発されます。
この新素材の開発成功により、義眼作りの中心はラオシャだと言われるようになります。
この村ではクリスマスオーナメントやその技術を応用した
リアルな人形用のガラスの目などが作られており、
ドイツ式ガラス義眼のルーツはクリスマスオーナメントだとか、
ドールアイだとか言われています。
シングル義眼・ダブル義眼の語源はココ!
もともとガラス製義眼は貝殻のような薄いものしか作られておらず、
眼球摘出などの場合には明らかなボリューム不足でした。
1889年頃(明治22年)、従来のガラス製義眼の持つ問題を解決するため、
ルートヴィッヒの甥、フレドリック・アドルフ・ミュラー・ウリが、
厚型ガラス製義眼を開発しました。
この新しいタイプのガラス製義眼は、中空にすることによって、
縁に丸みを持たせたまま義眼に厚みを持たせるよう工夫されていました。
従来の薄い義眼の断面はガラス1枚の壁なのでシングル義眼、
分厚い義眼は中空になっているため
断面がガラスの壁2枚になることから
ダブル義眼と呼ばれるようになりました。
※現在でも眼球ろうなどの場合に装用される
薄い義眼をシングル義眼(一重義眼)、
分厚い義眼をダブル義眼(二重義眼)
と分類することもありますが、
この 呼び方はガラス義眼の名残で、
樹脂製義眼はダブル義眼であっても中空にはなっていません。