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☆義眼の歴史☆~日本の義眼Ⅱ~

西洋の義眼との出会い
西洋のガラス義眼が初めて日本に持ち込まれたのは1868年、
徳川幕府からフランスに派遣された池田筑後守が戸塚文海に依頼されて持ち帰った
フランス製の義眼だと言われています。
 
その後、日本にもフランスのボアッソノー式義眼や
ドイツのミューラー式義眼が輸入されるようになりましたが
輸入された既製品から日本人に合う義眼を見つけるのは
非常に困難だったため、国産の義眼の開発が急がれました。
 
姫路の医師、高橋江春先生は、輸入されたボアッソノーの義眼などを参考に、
明治初期より長年の試行錯誤の末、1884年(明治17年)日本で初めて
鉛ガラス製の義眼の作製に成功しました。
 
しかし、世界的にフランスに代表される鉛ガラスの義眼よりも、
ドイツのミューラー式義眼が主流になったことに加え、
そのドイツ製ミューラー式義眼がマルク安のため大量に日本に輸入され、
販売価格が約10分の1程度まで下がったことで、
国産義眼を求める人は減っていきました。
 
高橋先生の跡を継いだ技術者もたようたようですが、
残念ながら大正から昭和になるころには
この高橋式義眼とも呼ばれる義眼の作製は中止され、
日本全国に普及することはありませんでした。
 
国産ガラス義眼の実用化
その後も日本は素材をドイツからの輸入に頼るのではなく、
素材を含めた義眼の完全国産化を目指し、
鉛ガラスに代わる新しいガラス素材の開発に取り組みました。
 
当時の東京帝国大学の眼科の石原忍教授の命によって
国産義眼の研究開発に長年携わっていた、
中泉行正博士からの依頼を受けて研究をすすめていた
岩城硝子製造所が1929年(昭和4年)、
義眼の素材に適したガラスの実用化に目途をつけました。
 
その後、中泉博士から依頼を受け、化学用実験器具職人の
厚沢銀次郎氏が、国産の新しいガラス素材を使って義眼の開発を始めました。
 
厚沢氏はミューラー式義眼の作製方法を研究し、
1930年(昭和5年・・満州事変の前年)初めて国産義眼の実用化に成功しました。
また、義眼作成の工程を国内で行うことができるようになったことにより、
一人ひとりに合わせたオーダーメイドの義眼の作製も可能になりました。
 
ガラスからアクリルへ
第二次世界大戦中、アメリカではアクリル樹脂を使った義眼の作製に成功していました。
日本へも終戦後、欧米から文献が入ってくるようになり、
アクリル樹脂製義眼の情報が伝えられました。
 
中泉行正博士が1952年(昭和27年)に発表した文献の中で
「国産プラスチック義眼」について紹介していることから
終戦後には日本でも速やかに義眼の素材が、
ガラスからアクリル樹脂へと移行されていたことが分かります。
 
この文献の中で紹介されている日本の
樹脂製義眼の作製方法は
アメリカの「アーミー・メソッド」など、
西洋の義眼作成方法とは違う、日本独自の部分もすでにあります。

ガラス製義眼の時も、アクリル製義眼の時も、
西洋のオキュラリストと違い、直接ドイツやアメリカのラボへ弟子入りするという形で
技術を教えてもらうことは難しかったにもかかわらず、
かなりの短期間で独自に義眼を作製することを可能にした
日本のオキュラリストや素材開発に携わった方々の努力と情熱には
本当に頭の下がる思いです。

義眼の歴史をたどると、国内外問わず、大きな変化のきっかけは
残念ながら戦争であることが多いように思います。
今後は地道でも、少しずつでも、世界中の義眼師同士、協力して
争うことなくより良い義眼を作れるようになりたいと思いました。

2016年11月02日 17:31

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